随筆
第355回 清盛公開日:2012年02月18日
第355回 清盛
「電子随筆」
テレビの娯楽番組に興味が薄く縁遠いので、語る資格はないのですが、人々の評判で平安時代像が少し固まりすぎていないか、気になったので大河ドラマ「清盛」を話題にして見ました。
2012年2月17日
井上 毅
「清 盛」
NHKのいわゆる大河ドラマが、今年は平安時代後期を舞台に、平清盛を主人公にして進行している。私はお笑い芸やドラマ仕立てのテレビ番組を、ほとんど見ない習慣だから、これをあげつらう資格はまったくない。しかし雅(みやび)であると期待した平安時代のイメージ表現が、埃っぽくて汚いといった批評を巡って、意見が交錯したり、生活水準が貧乏ったらしいなどとする論評が、やり取りされているのを聞くと、人々の平安時代観にかなり強い共通性というか、特定の先入観があることを痛感、また人物評なども軍記物や文学作品で得た印象を、ベースにする向きが多いように思えて、作品論ではなく時代観に、ちょっと口を挟んでみたい気持ちを刺激されるのである。
まず何はともあれ、一口に平安時代といっても、桓武天皇が延暦13年(794)に、長岡京から京都に遷都してから、源頼朝が征夷大将軍になって鎌倉に幕府を開く建久3年(1192)までは、398年という長い期間である。今から398年前といえば江戸時代初期の慶長19年(1614)、徳川2代将軍・秀忠の治政下ということを考えても分かるとおり、その長い期間をひとまとめにイメージするのは、どの時代であっても少々乱暴である。日本史を学ぶ場合の常識として、平安時代はふつう初・中・後の3期に分けて考察することになっている。政治の変遷と対比していう場合には、律令制再興期・摂関期・院政期という捉え方をする。院政期は平氏政権期と言い換えても良く、大河ドラマの時代背景はこの時期に当る。平安時代といえば万人がピンとくる、紫式部描くところの源氏物語の世界があるが、これは初期と中期の宮廷生活を中心に描写されたものであり、律令制再興期、つまり奈良朝から続く天皇の独裁期と、摂政・関白が天皇の後見として実権を握り、律令制を形骸化させた摂関期の宮廷文化である。しかもその摂関は権勢を独占した藤原一族の中でも北家、つまり初代摂政・良房の子孫に限られる状況であったから、後期の院政期に暴発したり、流動化する不穏な政治的エネルギーが、随所に蓄積されていったのである。
院政は一般に応徳3年(1086)白河上皇に始まり、鳥羽、後白河などの上皇によって行われたとされるが、政治権力の葛藤としてみると、専権をほしいままにする摂関家に対する“天皇家の抵抗”のプロセスで、国政の形態としては、藤原氏にとり囲まれた天皇の発する詔勅よりも、院庁で上皇または法皇が発する、院宣(いんぜん)の方が重んぜられるという不規則な形であった。天皇家の長老というか家長として、先帝が国政の大綱を示すという建前だったが、現実は摂関政治を押さえ込むダブル・スタンダード。実はこの方式は、先帝の後三条天皇が上皇になって始めたのを白河上皇が踏襲した。加えて予て「身分高きものは信頼できる武勇の者を従えているべきだ」のお考えだった白河上皇は、当時名将の誉れ高く、武門の棟梁と仰ぎ見られた源義家を頂点とする“源氏”が、中央権力を独裁していた摂関家と、強固に結びついているのを考え合わせ、義家の嫡男義親が九州で狼藉を働き、官命でこれを成敗した平正盛を引き付けて重用した。これが源平勢力大逆転の分かれ道となり、正盛の孫・清盛に至って「平氏にあらずんば人にあらず」とまでいわれた“平氏”全盛の時代を迎える。
平清盛はそういう流れの中で、天運を利して巧みに立ち回り、また対中国貿易の利を中心に、家富や勢力を拡大しただけでなく、保元・平治の乱などを契機に、政治的立場を強固に築き上げ、低い武士の身分から飛躍して、太政大臣にまで上り詰め、いっとき政権を支配した。平氏そのものは、天皇支配体制下のいわば“公卿化した武家政治”の栄華を追求したに終わり、その結末もあえなく西海の藻屑に消えたとはいえ、貴族支配の命脈を絶ち、濃淡・断続を交えつつ、明治維新に至るまでの長い“武家政治”の地合を誕生させたわけであり、わが国政治史の大きな分岐点に立っていたことになる。
この間に起伏した数多くの出来事、事件や騒乱、また登場人物については、実に多くの記録があるが、広く大衆化して伝世しているのは、軍記物語、叙事詩、読み本、語り本などの文学作品が圧倒的に多い。尋常には覗い知ることの出来ない宮中、貴族、またその下層の武士(軍事貴族)たち支配階層内部の情報が、騒乱や葛藤、それも血族、同胞が入り乱れて、利害、愛憎、怨念に事寄せて演じられた人間像の縺れとして、大衆の強い興味を引いたのであろう。定型化し、或いは形を変えて繰り返し語り継がれた。謡曲、浄瑠璃、歌舞伎など戯曲化された作品も少なくない。
しかしそれらには、多くの場合、作品全体を通じてのテーマに強引に関連付けるとか、人物の性格描写をことさら鮮烈に対照させるとか、文学作品独特のバイアスが掛かっていることも事実で、史実として受け止めるには、同時代の史料による裏づけなど、対比考証が欠かせない。例えば「平家物語」の場合、平家一門の栄華とその没落、滅亡を描き、仏教の因果観、無常観を浮き彫りにする大きなテーマが根底にあるし、平家物語を増補、改修した異本ともいわれる「源平盛衰記」(げんぺいじょうすいき)は、平清盛の栄華を中心に、源平二氏の興亡盛衰を仔細に描き、夫々の因果を暗示する仕立になっている。このためか一般に、清盛は乱暴で片意地な悪入道のように描かれ、息子の重盛は温厚で慎み深い人柄のように捉えられているが、事実が果たしてそうであったかどうか。建長4年(1252)に書かれた「十訓抄」(じっきんしょう)という和漢・古今の教訓的説話を収録した説話集には、清盛の人柄について「人が自分の機嫌をとるためにしたことは、面白くなくても、タイミングが悪くて苦々しく思っても、にこやかに笑って見せた。人が過ちをしても荒い言葉で叱りつけるようなことはなかった。寒い夜は小侍を自分の布団の裾に寝かせ、目覚めたときも彼らが目覚めないようにそっと起きたし、下々の者でも人前では一人前の家来のように扱い面目を立ててやった」と書かれている。
当時の史実を考証する手がかりとして、このほかに「古事談」(平安中期までの史実、有職故実、伝説を収録した説話集、源顕兼編、1212-15頃)、「愚管抄」(わが国初の史論書、慈円著)、「玉葉」(九条兼実の日記、源平、鎌倉初期の政治の実相を詳述)、「台記」(宇治左大臣藤原頼長の日記、1136-55)などがある。これらを読み合わせた上で、均衡のとれた史実として理解することがどうしても必要だと思う。
そうした配慮の上で書かれた史伝で、手頃なものとしては歴史小説の巨匠といわれた故・海音寺潮五郎氏の「平清盛」(中公文庫「日本の名匠」・武将の運命編・所収)、近刊では武光誠・明治学院大教授の「平清盛-天皇に翻弄された平氏一族-」(平凡社新書)辺りがお奨めである。
